ホッパーの絵はドキュメンタリーと言えるかどうか — 「撮るひと」が「絵を観る」ときに思うこと

※注記
上の画像、エドワード=ホッパーの絵画『夜更かしの人々(Nighthawks)』(1942)は、2017年に著作権の更新が放棄されています(パブリックドメイン)。そのため私は本文中にこの画像を使用しました。
この絵をはじめて観たのは、約30年前に訪れたアメリカのシカゴ美術館での展示でした。それ以来、ホッパーの作風に興味を持ち、2000年の東京・Bunkamura ザ・ミュージアム『エドワード・ホッパー展』や2011年、国立新美術館『モダン・アート,アメリカン』展で、ふたたび彼の作品を観る機会を得ました。
エドワード=ホッパーの絵の題材の多くは、彼の完全な空想ではなく、実在の風景や人物にによるものです。
本文のはじめに載せた『夜更かしの人々』の作品の舞台となっているバー・カウンター付きのダイナー(レストランか?)、NYマンハッタンのグリニッジ通りにかつて実在しました。彼はこの場所になんども通ってスケッチとメモをおこなっています。そして、この絵の場面の登場人物 — 深夜のバー・カウンターに座る1組の男女と彼らの前で仕事をしている白衣の従業員、そして静かに座っている単独の男性客の姿は、彼が見た実際の光景だったとされています。
— 通りを歩く人の姿はまったく無い。後ろに見える店のショー・ウィンドゥは防犯のため、陳列した商品がすべて閉店後に撤去されている(それとも空き店舗なのか?)。コーヒーを飲んでいるカップルの、男の眼は女を見ておらず、煙草を吸いながら遠い視線を店の奥のほうへと送っている。女は自分の右手の指先を見つめ、退屈そうだ(店のマッチでも眺めているのか?)。1人で来ている男の、空になったマグ・カップは彼の肘のところに置いてあり、しかもその位置は胸の前ではなく体の外側である。もしまだ飲みかけならば、この位置には置かないだろう。この男の背中から、孤独と寂しさがうかがえる。白衣の男性店員も彼には近寄らず、意図的に距離をとっているようにも感じる —。
この絵が醸す「温かみのない、不穏な」空気は、鑑賞者の多くが感じ取るものだと思います。
それは、この時代のアメリカの世相を反映したものなのか。それとも、もっと個人的で普遍的な、都会で生きる人間の機微を表現したものなのか。
みなさんは『夜更かしの人々』から何を感じますか。
この絵をドキュメンタリーの一種と捉え、1940年代のアメリカの大都市が抱える人間社会の問題が垣間見える作品だと評価する人たちがいます。実際、エドワード=ホッパーがこの店の前にスケッチに訪れた時期は1941年の12月の初旬、つまり第二次大戦中のしかも太平洋戦争開戦の直前であり、その社会情勢の不安定さが作風に色濃く出ているとする見方があるのです。
しかし私は、これがドキュメンタリーだとは思いません。「絵画」である以上、そこに描かれている全てが仮に、事実に基づいたものであったとしても、これはドキュメンタリーではないと、私は考えます。
静止画によるビジュアルの表現として「絵」と「写真」というものがあります。写真はドキュメンタリーとなり得るが、絵はそうではない。その差異について少しお話しします。
どんなに現実に忠実にリアルな事象を絵画の技法を用いて描いても、それは「事実の証拠」にはなりません。いっぽう、撮影機材(カメラとレンズ)を使った写真は、事実の証拠として認められます。
当たり前のことかもしれませんが、証拠「写真」はあっても「証拠スケッチ」は存在しないのです。
それだからこそ、写真は常に、事実に寄り添ったものでなくてはならない — そう思うのは、私が1人の写真家として「写真の持つ信ぴょう性」を支持しているからです。テクノロジーの進化とともに編集の際のレタッチ技術は格段に上がり、事実をねじ曲げかねない写真表現が増えてきているのは確かですが、それでも私は「写真の持つ確からしさ」を信じたい。
都会の夜の、複雑な人間模様をクールに描いたエドワード=ホッパーの『夜更かしの人々』が私は好きです。ドキュメンタリーとしてではなく、どこにでも「在りえそうな」メルヘンとして、この作品に魅力を感じます。
作家の個性や制作の過程といった作品の外側にある物語も含め、1枚の絵から色んなドラマが生み出されている視覚表現としての『夜更かしの人々(Nighthawks)』— こんな作品を、私も「写真」で作ってみたいと思っています。



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