top of page

「今日(こんにち)新加坡《20-22》〜 街角から眺めるシンガポール 〜  」

 

と題し、シンガポールの日常を撮影した写真を並べてみます。


 

急速に発展した経済や、清潔で整備された都市機能、そして魅力ある観光地として世界に認められていることなど、シンガポールと日本(なかでも東京)には、このような幾つかの共通点があります。

 

しかし相違点としては、シンガポールには、歴史的背景および経済・産業の国際化により多様なバック・グラウンドを持つ人々が暮らしており、日本ではあまり触れることのない文化や生活様式が存在するということがあげられます。

ここに載せた写真たちは、そのようなシンガポールならではの街並みや文化、そして人々の暮らしを率直に感じていただくことを念頭にセレクトしたものです。

これらの写真を通じ、親しみと興味、そして好意的な関心をこの国に持っていただけたら幸いです。

~ シンガポールの概要 ~

 

 赤道のそば、マレー半島の南端に位置する島国・シンガポール。

1819年、船舶の寄港地の建設のためにイギリス東インド会社のスタンフォード=ラッフルズがこの島に降り立った。近代史の上でのシンガポールは、ここから始まる。

イギリス・フランス・スペイン・オランダを中心とした植民地主義の時代、ヨーロッパ ⇔ 東南アジア間の海上交易の重要拠点として、19世紀中ごろから20世紀前半まで、シンガポールはイギリス統治の時代が長く続いた。

しかし、太平洋戦争が始まってすぐの1942年、それまで植民地として支配していたイギリスの駐留軍が、侵攻する日本軍によって敗退、そこから1945年までの期間は日本が「昭南島(しょうなんとう)」と改称して、この島を占領・統治する。

大戦後はふたたびイギリスによる国家運営への関与が復活したが、次第に国民は独立を求め、植民地支配からの脱却と共和制への道のりを模索しはじめる。そして1963年、隣国マラヤ連邦と統合しマレーシアが成立。シンガポールは「マレーシア連邦シンガポール州」となる。マレーシア連邦の一員になることは、のちにシンガポール初代首相となる指導者・リー=クアンユーの念願だった。

 

しかし、シンガポールのマレーシア連邦時代はわずか2年で終わってしまった。

イスラム教信者のマレー系住民が多数を占める他のマレーシア連邦の地域と比べ、中華系(道教・仏教信者)が多い地域であること、東南アジア随一の貿易拠点として長年にわたり栄えてきたため連邦の中で突出して所得水準が高く、その経済格差により感情的に他から疎まれる存在になっていたこと等により、シンガポール州はマレーシアから追放されてしまう。

こうして、単独国家として生きていくことを余儀なくされたマレーシア連邦・シンガポール州は、1965年8月9日「シンガポール共和国」として独立する。

その当時の人口は約200万人(現在は570万人)。国土面積は、東京23区を一回り大きくした程度(約720㎢)しかなく、水や食糧はマレーシアからの輸入に頼らざるを得ない状況 — 。

東西に約42キロ、南北に23キロしかない小国・シンガポールにとっては「土地がない、資源がない、食糧がない」— ないない尽くしの、たいへんに不安な、独立国としてのスタートだった。

 

そんな、問題山積の状況での発進だったが、2025年には、独立から60周年を迎える。

現在では、経済規模は1965年と比較し400倍に膨れ上がった。1人あたりGDP額は日本を抜いてアジア第1位となっている。シンガポールに拠点を置く銀行・資産運用・保険・証券会社はおよそ1200社あり、都心のビジネス街は、アジアだけでなく世界の金融センターとしての役割を担っている。

 

初代首相・リー=クアンユーが率いた人民行動党が建国から現在まで与党を担い続け、ときに、独裁国家だと諸外国から批判されながらも「経済発展・愛国心」を絶対的テーマとして、強力なトップダウンによる政策決定と国家運営により、この国は繁栄を維持してきた。

今日では、建国当初の問題はクリアしたと言っていい。だが、人口の高齢化・移民労働者の人権、そして表現と報道の自由に関すること等、発展後の新たな問題も生じている。

シンガポールは、アジアの文化・経済を先導していく立場としての国のあり方が今後も問われ続けていくことになるだろう。

~ 宗教 ~


シンガポール国内に、イスラム教の礼拝堂は約50か所ある。一般にはモスク(mosque・英語)という呼び名で知られているが、信者たちはアラビア語でマスジッド(masjid・ひざまずく場所の意)と呼んでいる。

観光スポットになっているところを除けば、どこのマスジッドも意外にいつもは閑散としている。なぜなら、聖堂や礼拝室でなくても、静かで清潔な場所ならどこでも神に祈ることは可能であるとクルアーン(教典・コーラン)は説いているからで、信者にとってマスジッドは、足繁く通う場所というより、精神的な拠り所としての意味合いが大きい。

 

彼らは1日に5回、自宅や職場など、それぞれの場所で、預言者ムハンマド生誕の地マッカ(メッカ)のあるほうを向き、礼拝する。ただし男性に限り、毎週金曜の正午の礼拝だけは礼拝堂でおこなうようにと教典は教えているので、男たちは最寄りのマスジッドへと足を運ぶ。そのため、金曜の昼だけは多くのマスジッドが信者の男たちで溢れかえる。

 

金曜礼拝で男たちは、説教師の話を20分ほど聴き、そのあと皆で膝を折り、額を床に付け、祈る。

マスジッドの責任者の了承が得られれば礼拝のようすを撮影することはできるが、途中「アッラーアクバル(神は偉大なり)」と唱和するその時だけはシャッターを切らないように注意しなければならない。

 

**********

 

ヒンドゥー教の施設の数も多い。先の尖った塔状の上部と色鮮やかな外壁、その至る所に祀られた神々の像 — 一目でそれとわかる特徴的な寺院が国内に約30か所ある。

 

太陰暦に基づくヒンドゥーの正月「ディーパバリ Deepavali 」の時期になると、寺院の集まるリトル・インディア地区はインド系住民たちの人出で賑わう。他にも、ヒンドゥーの神々にまつわる祭事が国内の寺院では年に数回、それぞれに催され、地元の信徒だけに限らず地域のイベントとして国民に定着している。

 

**********

 

中国に由来する、街角で見られる風習のひとつに「焼紙(しょうし)」というものがある。

 

これは先祖の供養の目的で、焚紙炉(ふんしろ)と呼ばれるペンキ缶やドラム缶で作った ” 炉 ” に、冥銭(めいせん)という札束を模した紙を放り込んで燃やすという中国の民間信仰および道教に基づく宗教行事のひとつである。

 

清明節(春のお彼岸)や中元節(お中元)の時期の数日間、中国(中華)系のシンガポール人たちは、団地の集会所や駅前などに設置した焚紙炉に冥銭を投げ入れて、先祖が天国でいつまでも裕福に暮らせるようにと祈願する。

~ 人々のくらし ~


 

シンガポールは、 総人口に占める国民の割合がかなり少ない。

総人口が約570万人で、そのうち国民(国籍保持者と永住権保有者)は404万人である。つまり、残りの166万人は労働に関連して外国から来ている長期居住者である。その多くが、国際的大企業の駐在員やその家族たちだが、建設現場で働くインドやバングラデシュなどからの出稼ぎ労働者や、いわゆる「お手伝いさん」として住み込みで雇われているフィリピン出身の女性たちなどもこれに含まれる。

経済成長のために外国からの労働力を積極的に取り込むことをシンガポール政府は政策の柱のひとつにしている。それができるのは、もともとシンガポールという土地が、1965年の独立以前から様々な人種・民族および宗教が混在した「モザイク国家」であったという歴史的背景があるからだろう。それゆえ特徴として、この国では、ルーツや出身で国民を分類し、中国(中華)系・マレーシア系・インド系など —「系」で呼び分けることが日常の慣例になっている。中国系住民が国民の75パーセントともっとも多く、次にマレーシア系、インド系の順に多い。

 

**********

 

公用語は英語、標準中国語、マレー語、タミル(南インド)語の4つ。学校教育では、中国系は中国語、マレーシア系はマレー語、インド系はタミル語 — 母語を第1国語として、それに加え英語の教育も徹底しておこなっている。そのため公共の場での会話はほとんどが英語でおこなわれる。

 

**********

 

宗教や信仰が多様で、総人口(約570万人)における信仰の対象の割合は大まかに述べると、仏教が3割、キリスト教とイスラム教がそれぞれ2割ずつ、ヒンドゥー教が1割で、 その他としてユダヤ教や道教、関帝信仰などがある。

 

**********

 

1965年の建国から今に続くシンガポールの国策のテーマに

「清潔な国にすること・全ての国民により良い住まいを与えること」

というのがある。その代表例がHDB(公団住宅・Housing & Development Board )とホーカー・センター(フードコート・Hawker center )だ。

国民404万人の内のじつに80パーセントの人々が、政府が建てた公団住宅(HDB)に住んでいる。HDBは、20階建てクラスのアパートメント数棟で1つが構成され、その多くは、1階部分にホーカー・センターと呼ばれる、個人経営の飲食店が入るフードコートが作られている。

建国当時のシンガポールは、決して住みやすいとは言えない古い長屋形式の集合住宅に多くの国民が暮らし、街には、簡易移動式屋台(ストール)の不衛生な飲食店が溢れかえっていた。それらを解消するために政府は、HDBの建設を推し進め、屋台の営業を禁止し、代わりにホーカー・センターを作って、彼らをそこで営業させるようにした。

bottom of page